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JAPAN PARKOUR COMMISSION
日本体操協会 パルクール委員会 組織

発足:2018年4月1日

  • 委員長                        荒本 英世
  • 副委員長                        後藤 洋一
  • 委員                        遠藤 幸一
  • 委員                        八鍬 準平

EMAIL : parkour@kju.jp

大会

                                                                       
パルクール国際&国内大会一覧
大会種類 主催 大会名称 カテゴリー 開催期 開催年
国際大会 FIG パルクール世界選手権 S 2年毎 22,24年
(国際体操連盟)パルクールワールドカップ AAA毎年数カ所18年~
パルクールジュニア世界選手権 S 2年毎 24年
AGU パルクールアジア選手権 AA 未定 25年
(アジア体操連盟) パルクールジュニアアジア選手権 AA 未定 25年
パルクールアジアオンラインコンペティション A 未定 24年
パルクールコンチネンタルオンラインコンペティション A 未定 25年
GAISF ワールドゲームズ パルクール AAA 4年毎 21,25年
(国際スポーツ団体連合) アーバンゲームズ パルクール AAA 未定 22年
国内大会 JGA パルクール日本選手権 A 毎年 19年~
(日本体操協会) パルクールネクストジェン A 毎年 23年~
パルクール日本選手権予選 B 毎年 23年~
パルクールネクストジェン予選 B 毎年 24年~
パルクールオンラインコンペティション(フリースタイル) B 未定 21,22,23年
パルクールオンラインコンペティション(スピード) C 未定 23年~

※国際大会は上記の FIG、AGU、GAISFが主催する大会そして国内大会はJGAが主催する大会が正式な公式大会であり、他の団体あるいは地方(都道府県)の団体・協会・民間が行う大会はそこには入らない非公式な大会となります。

パルクールの沿革

世界

◆パルクールの創生 – 本能・哲学

人はなぜ走るのか。なぜ跳び、よじ登り、駆け抜けるのか。
それは、生きるため。

               パルクール選手が競技を行っている様子。本能的な動きと自由な身体表現を象徴する一枚。

遥か昔、原始の時代より、人は獲物を追い、危険を避け、大地を駆け抜けてきた。 移動することは、生存そのものであり、本能そのもの。そして現代において、その本能を研ぎ澄ませ、身体と精神を鍛える術として昇華させた者たちがいた。 彼らは、自らの動きを「パルクール」と呼んだ。

1990年代、フランス。
この物語の始まりは、スポーツと呼ばれる既存の枠組みに満足できなかった若者たちによる、ある挑戦からだった。 彼らは競争や勝敗を超えた、より本質的な身体鍛錬の在り方を求めた。  

その中心にいたのがダヴィッド・ベルとシャルル・ペリエール。
彼らは「Yamakasi」と名乗り、都市の建物や障害物を自由に駆け抜け、飛び越え、登ることで、自らの身体と精神を鍛え上げていった。その姿は、周囲の人々の目には新しく、奇異に映ったかもしれない。しかし、彼らの動きには確かな理論と哲学があった。

ダヴィッド・ベルがその基盤としたのは、父レイモンド・ベルの教えだった。レイモンドは兵士であり、後に消防士となった男。彼は幼い息子に、障害物を乗り越えることの意味を教え、心身を鍛えることの大切さを説いた。単なる運動ではない、生きるための術としての動き。それはダヴィッドの中に深く根付き、やが てパルクールの礎となった。

シャルル・ペリエールもまた、この新たな鍛錬の意義を強く感じていた。彼はパルクールを「生きていく上での困難に対処するために、心と体を育てるもの」と説明し、その価値を広めていった。パルクールは単なるスポーツではなく、精神と身体が一体となる哲学であり、尊敬、謙虚さ、厳格さ、勇気といった普遍的な価値観を養うものだった。

こうして、都市の片隅で始まった小さな動きは、やがて世界中に広がる文化へと成長していく。そして今、パルクールは国際体操連盟のもと、競技としての形を持ちながらも、その根底にある哲学は変わらず生き続けている。

「パルクールは、ただの動きではない。それは、生きることそのものだ」
彼らの信じたこの理念は、今もなお、多くの者たちの心と身体を鍛え続けている。

  パルクールの創始者であるYamakasi(ヤマカシ)のメンバーたち。パルクール文化の礎を築いた先駆者たちの集合写真。

◆パルクールの進化 - 世界へ

フランスのリスという小さな街で生まれたパルクールは、21世紀に入ると急速に世界へと広がり、新たな進化を遂げた。パルクールの創始者たちは、もともと伝統的なスポーツに満足できず、自由な動きを追求する鍛錬と哲学を共有していた。しかし、それがより多くの人々に届くためには、新しい方法が必要だった。

その中心にいたのが、現在の国際体操連盟(FIG)パルクール委員長であるシャルル・ペリエール。彼はパルクールの普及に情熱を持ち、その可能性を世界に示すために 動き出した。その最初の転機となったのは、映画というメディアとの融合だった。1990年代後半から2000年代初頭にかけて、映画監督リュック・ベッソンと協力し、パルクールの動きをふんだんに取り入れた作品を世に送り出した。

映画「TAXi 2」、「ヤマカシ」、「アルティメット13」(Banlieue 13)は、パルクールを一躍世界的に有名にした作品だった。特に「ヤマカシ」は、パルクールを 実践するグループの名をそのままタイトルにし、彼らの動きが持つスピード感と大胆さを映し出していた。これらの作品を通じて、多くの若者がパルクールに興味を持ち、それが広がるきっかけとなった。

また、シャルル・ペリエールは単なる映像表現にとどまらず、パルクールの教育とトレーニングの場を確立するために動いた。彼が設立した「Culture Parkour」は、パルクールの技術だけでなく、その哲学や安全な練習方法を伝える施設として、多くのトレーサー(パルクール実践者)を育てた。パルクールはもともと、自己鍛錬と精神の成長を重視する文化だったが、それをより体系的に学ぶ場ができたことで、新たなステージへと進化していった。

◆パルクールの発展 - 競技スポーツとして

パルクールの普及と進化の過程で、もう一つの大きな流れが生まれた。それが「競技化」である。パルクールは本来、競争ではなく自己探求の道だったが、その動きを競技として発展させることで、さらに多くの人に届けることができると考えられた。

2000年代後半から、民間企業やイベント団体が、スピードや技の完成度を競う競技パルクールの可能性を模索し始めた。そして、2016年の冬季ユースオリンピックでは、シャルル・ペリエールが大規模なワークショップを実施し、競技パルクールが正式なスポーツとして認識される契機となった。これにより、世界のスポーツ界からもパルクールが注目されるようになった。

さらに2017年には、シャルル・ペリエールとダヴィッド・ベルが、国際体操連盟(FIG)会長・渡辺守成と連携し、パルクールの未来を築くための大きな一歩を踏み出した。FIG内にパルクール委員会が設立され、ダヴィッド・ベルが初代委員長、シャルル・ペリエールが副委員長に就任したのだ。これにより、パルクールは正式に国際競技の一つとして発展していくことになった。

そして2018年、日本・広島で FISE Hiroshima が開催され、その中で歴史的な第1回ワールドカップが開催された。FIGのもとで行われる公式のパルクール競技大会では、「スピード」と「フリースタイル」の2種目が設定され、競技パルクールのフォーマットが確立された。

世界最大級のアーバンスポーツフェスティバル「FISE (International Extreme Sports Festival)」の各国大会を始めとし、この動きはさらに加速して、パルクールは「ワールドゲームズ」にも正式競技として組み込まれるようになった。競技人口も年々増加し、各国がナショナルチームを編成するまでに発展を遂げた。

◆パルクールの更なる発展 - 教育プログラムの確立

2018年末には、ダヴィッド・ベルが委員長職を退き、シャルル・ペリエールが正式にFIGパルクール委員長に就任。競技の発展だけでなく、パルクールの教育体系を確立するために、新たなプログラムの構築が進められた。

その一つが「FIGアカデミー」である。これは、FIGが持つスポーツ科学の知見とパルクールの技術・哲学を融合させた教育プログラムで、世界中のコーチや選手が統一された指導のもとで学べるようにすることを目的としている。さらに、子どもたちが安全にパルクールを学べるように、「年齢別教育プログラム」も導入された。

これらのプログラムは、単に競技者を育成するだけではなく、パルクールの本質である「心と体を鍛え、困難を乗り越える力を養う」ことを目的としている。FIGのもとで科学的に裏付けられた教育体系が確立されたことで、パルクールはより安全に、そして持続可能な形で次世代へと受け継がれることになった。

FIGパルクール委員長のシャルル・ペリエール氏が階段に腰掛けている写真。黒いTシャツに黄色のデザインが入り、チェック柄のパンツとスニーカーを着用。FIGアカデミーやパルクール教育プログラムの確立に尽力し、パルクールを次世代へと安全に継承することに取り組んでいる重要人物。日なたの中でリラックスした表情を見せている。

◆パルクールの未来 - 展望

パルクールは、単なるスポーツやエクストリームアクティビティではなく、哲学と身体鍛錬が融合した文化である。その精神は創始者たちが築いたものと変わらず、自由・尊敬・勇気・自己成長といった価値観を大切にしながら進化し続けている。

現在、パルクールは世界中で競技スポーツとしての地位を確立しつつあるが、その一方で、初心者でも安全に楽しめる教育プログラムやコミュニティの発展にも力が注がれている。国際体操連盟のもとで、パルクールがさらに広がり、新しい世代のトレーサーたちがその魅力を受け継ぎ、発展させていくことが期待されている。

日本

◆パルクールの推移 - スポーツ&教育体系

フランスの小さな町リスで生まれたパルクールは、やがて世界中に広がり、その発展の中で競技化という新たな側面を持つようになった。この流れは日本にも及び、パルクールは単なるストリート文化やフィットネスの枠を超え、スポーツ、そして教育体系としての道を歩み始める。

日本においてパルクールが広く知られるきっかけとなったのは、2001年に映画『YAMAKASI』が公開され、ヤマカシのメンバーが来日したことだろう。その衝撃的な映像は多くの若者を魅了し、当時の日本では「パルクール」という言葉よりも「ヤマカシ」という名称で認識されることが多かった。

  パルクール選手が都市環境を駆け抜けている様子。躍動感あふれる一枚。

◆黎明期 (2000年代前半) - 若者の文化として

2000年代初頭、パルクールに興味を持った日本の若者たちは、テレビや映画、さらにはインターネットを通じて情報を収集し始めた。都市部では、同じ志を持つ者 たちが少しずつ集まり、合同で練習をする光景が見られるようになった。当時の日本においてパルクールの体系的な指導者はほとんど存在せず、動画やわずかな海外の文献を頼りに試行錯誤しながら技術を磨く時代だった。

やがて、パルクールを実践するグループが各地に生まれ、互いに交流を持つようになった。2000年代後半には、東京・大阪・名古屋といった大都市での定期的な合 同練習が行われ、ウェブサイトやブログを活用した情報共有も活発になっていった。また、ヨーロッパへ渡り本場のパルクールを学ぶ者も現れ始め、海外との交流が本格化する。

◆発展期 (2010年代前半) - パルクールの認知度向上と教育の芽生え

2010年代に入ると、パルクールはさらに広い層に知られるようになり、企業が主催するスポーツイベントにも取り入れられ始めた。特にアスレチックレースでは、 パルクールの実践者たちが圧倒的な結果を出し、その存在が一般にも認識される機会が増えた。

また、この時期には、パルクールの安全な指導を目的とした教室が各地で開かれ始める。かつては若者たちのストリートスポーツと見られていたパルクールが、子供や親世代にも受け入れられるようになり、ヨーロッパのように教育の一環として位置づけられる流れが生まれた。

◆競技化の波 (2010年代後半) - 公式競技としての確立

2017年、国際体操連盟(FIG)がパルクールを正式に競技種目として取り入れることを発表すると、日本でもパルクールの競技化に向けた動きが本格化した。

日本で最初のパルクール委員長に就任した島田善は、すでにパルクール専用施設の建設や競技イベントの運営に関わっており、その経験を生かして競技としてのパルクールの発展に尽力した。そして、2018年には広島でパルクールワールドカップが開催され、日本が競技パルクールの中心地の一つとなる契機となった。

2019年には再び広島でワールドカップが開催され、日本人選手 泉ひかりがスピードで優勝し、この年の年間チャンピオンも獲得という快挙を達成。これにより、 日本の競技パルクールは世界的に注目される存在となった。

ワールドカップの画像。

◆競技文化の確立 (2020年代) - 世界に誇る競技文化

2020年代に入ると、新型感染症の影響で実地での競技大会が制限される中、パルクール界は迅速に対応し、オンライン世界大会の開催を実現させた(この大会では 島田善が優勝)。日本でもオンライン大会を開始し、特にスピード競技において日本独自のルールを制定し、世界に先駆けてオンラインでのスピード競技を成立させるという画期的な試みが行われた。この試みは成功を収め、後の世界大会でも日本人選手が入賞する土台を築いた。

2022年にはFIG世界選手権が東京で開催され、日本人選手 山本華歩がフリースタイルにて銀メダルを獲得するという結果を残し、日本の競技レベルの高さが証明された。そして、2023年には日本体操協会パルクール委員長を島田善より引き継いだ荒本英世が、国際体操連盟パルクールエキスパート資格を取得。これにより、日 本はアジアにおけるパルクール教育の中心地となるべく大きな一歩を踏み出した。またFIGパルクール委員を務めた針谷和昌がアジア体操連盟(AGU)パルクール委員長となり、アジアにおけるパルクールの発展に寄与することとなった。

コーチングにおいては、2023年末にアジア初の公式国際コーチアカデミーが広島で開催され、日本から4人の国際資格を持つコーチが誕生。さらに、将来のオリンピックでのメダル獲得を見据えたジュニア世代の育成プログラム「ネクストジェン」が本格始動した。

2024年には、競技パルクールのさらなる発展を象徴する出来事として、日本選手権が予選・決勝の二段階形式で開催されるようになった。さらに、2年に一度開催される世界選手権の第2回大会が北九州で開催され、日本人選手の塩幡睦大がフリースタイル銀メダルを獲得、さらに世界選手権と同時に初めて実施されたジュニア世界選手権では、日本人選手が5つのメダルを獲得。次世代の強化育成の成果が世界に認められる結果となった。

また、日本の競技を支える重要な要素として、審判の育成も進められ、パルクール委員の八鍬準平が国際審判資格を取得。これにより、日本の審査基準が世界レベルであることが証明され、日本の競技運営の信頼性がさらに高まった。

ステージ上に各国の国旗が掲げられ、手前には日本の国旗と他国の国旗を持つ選手たちが並んでいる。世界各国から集まった選手たちが参加する国際大会の雰囲気を伝える一枚。

◆日本パルクールの展望 - 未来へ

こうして、日本のパルクールはフランス発祥の哲学と教育の価値を継承しつつ、競技スポーツとしての発展を遂げた。その根底には、ただ技を磨くだけでなく、教育・哲学・鍛錬を通じて成長するという精神が息づいている。

今後も、日本体操協会パルクール委員会は、このスポーツの価値をより多くの人に伝え、次世代の選手育成、指導者の養成、そして世界への発信を続けていく。

パルクールの世界と日本の軌跡は驚くほど似ている。異なる文化圏でありながら、パルクールはそれぞれの国で独自の進化を遂げながらも、同じ精神のもとに発展してきた。その歴史を紡いできたすべての実践者たちは、今もなお、この文化の未来を切り拓いている。

  世界中のパルクール競技者が仲睦まじい姿で集合している様子